まちづくりNPO ラピュタ創造研究所
連載  太介不乃己不をさがせ!

(8) 源豊宗の越前国府考

    

武生出身の著名な美術史家であった(1895−2001)源豊宗さんが武生郷友会誌(大正8年)において『武生の起源』と題して越前国府について考察しているので紹介しておく。

源さんの考えでは、古い武生は今よりももっと西に寄っていて、深草の金剛院を国衙と想定することも出来るが、さらに大虫地区の丹生郷付近こそ国府の中心であったかも知れないという。平安時代には現在の武生市街はまだ開けていなかったかも知れないともいう。 武生に国府が置かれたきっかけは「大化の改新」であった。しかし、当時武生がこの地方の文化の中心であった為ではない。実際当時この地方では味真野の方が栄えていた可能性もある。催馬楽の「道の口」および「刺櫛」の2曲に武生の名称が見られるように、平安時代初期にはすでに武生の名称が存在したと考えている。

若干の注記を加えるなら、現在では「大化の改新」(645年)後に直ちに全国に国府が設置されたのではない、ということが定説になっている。「大化の改新」では律令国家を創っていくという基本方針が発表されただけで、本格的国府建設は8世紀初頭まで待たなければならなかった。

それにしても、源豊宗さんは『武生の起源』の冒頭で以下のように問題提起しているが、これらのことは87年後の今も問題のまま残っている。

此の問題は自ら三個に區分せられる。第一は武生と云ふ聚落の成立した起源で、第二には武生が國府の廳の所在となった起源、第三には武生と云ふ名稱の起源等である。是等の問題は吾等郷人にとつて極めて興味多きものであるけれども、其の史料に乏しく、不充分なる研究しか出来ないのは甚だ遺憾である。

87年前に提示されたこれらの諸問題の明確な解答を用意することを武生の人は怠ってきた。だからこそ、「初期国府は敦賀にあった」とか、「味真野にあった」とか、言われても、87年前の源さんと同程度の返答しかできないのである。

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