まちづくりNPO ラピュタ創造研究所
連載  太介不乃己不をさがせ!

(2)武生は本当に武生だったのか?

    

明治2年、古代歌謡の催馬楽に出てくる「太介不(たけふ)」に「武生」の字をあて、府中を武生と改称した。ところが、一乗谷朝倉氏遺跡資料館副館長の水野和雄氏は、「この地は、中・近世を通してずっと「府中」と呼ばれてきた地であり、明治2年9月に「武生」と改名されるまで、地名や地籍名から「武生」という名は確認されていない」として、現在の武生が本当に古代においても武生だったのか、疑問視している。

事実としては、文禄4年(1595)の『御霊神社縁起』に「越前國竹生郷鎮座」とあり、また寛文5年(1665)の『總社大神宮由緒書』に「太介不乃己不(即チ竹生ノ國府也)」と見える。しかし、水野氏は「江戸時代初期に、両社の縁起を書き記すための作業過程で、この地が『催馬楽』の「太介不乃己不」=「竹生」と考証したのであろう」と推察している。この点に関しては、反「敦賀説」の足立尚計氏もそのような考証の可能性を否定せず、「近世以後の神社縁起には、神主や国学者が信仰上その神徳昂揚の教化活動の手段として、或いは戦国期に荒廃した神社の復興・社家の復権の手段として、牽強付会の説を記述することが多くみられる。」と述べている。すなわち、神社の縁起や由緒ごときに書いてあることをもって「武生は古代にも武生であった」の証明にはならないようである。

一方、敦賀はどうか。気比神社権祝石塚資元によって嘉永年間(1848〜1854)に成立した『敦賀志』に「長沢・古田苅・堂村・鳩原<三屋属之>・吉河・阪下・道口・小河 右八村、日武生郷」とあり、ここに武生の名が見える。他に、『延享の古帳』や『越前国名蹟考』などに「武符郷八村 長澤村・古田刈村・…」と記載されているという。ところが、大正4年刊行の『敦賀郡史』において、「…国府の丹生郡にありしは疑ふべからず。…素より道口近傍に国府ありし證左なし。…武符郷の名稱も催馬楽の曲解より出でゝ後人の云ひならしゝ者にて、決して古名に非ず。」と、『敦賀志』『延享の古帳』『越前国名蹟考』に記されている「タケフ」に対し否定的見解を示している。

どうも神社系のインテリゲンチャーが記した「武生」は、武生も敦賀も怪しそうである。もっと普通の人が日常的著述の中に「武生」と記した例として、越前町梅浦の旧家の「岡田茂十郎日記」に「竹府」「竹生」の文字が見えると、斉藤嘉造氏が指摘している。また、久成寺の松井家関係記録の中にも「竹生」の記載があると杉浦茂氏が以前指摘していた。しかし、岡田氏も松井氏も普通の人とは言い難く、時には『催馬楽』など紐解く当時のインテリゲンチャーであったかと思われる。

 こうしてあれこれ考えていくと、武生も敦賀も『催馬楽』の「太介不乃己不」を頼りに、後世に地名捏造までして「おらが町こそ太介不」と綱引きをしてきたが、明治2年の「府中を武生に改名」で大勢は決まった、ということのようである。